これは猫に関する小説であり、同時に投稿テストでもある。そんな身も蓋もない一文から始めてしまうのは、たぶん今夜の主役である猫が、そういう事情を気にしない生き物だからだ。
雨上がりの路地は、街灯の光を薄く伸ばしていた。アスファルトの割れ目にはまだ小さな水たまりが残り、夜風が吹くたびに、そこへ映った電線がゆらゆらと揺れた。私はコンビニ帰りの袋を片手に、少しだけ遠回りをして家に向かっていた。
そのとき、塀の上から声がした。
「遅い」
もちろん、人間の声ではない。もっと乾いていて、もっと勝手で、それでいて妙に納得させる響きだった。見上げると、黒猫がいた。片耳の先が少しだけ欠けていて、金色の目がこちらをじっと見下ろしている。
「待っていたんだが」
猫はそう言って、まるで当然のようにあくびをした。
私は疲れていたのかもしれない。普通なら驚くはずなのに、「そうですか」と返してしまった。
「よろしい」
黒猫は塀から軽やかに飛び降りると、私の足元を一周した。しっぽがズボンの裾に触れ、雨の匂いに混じって、日向の毛布みたいな匂いがした。
「君、今、小説の主人公に向いていない顔をしている」
「主人公に向いてる顔って何」
「もっとこう、自分が選ばれたことに戸惑う顔だ。読者が期待する」
猫はやれやれというふうに首を振った。私はその場で立ち止まり、コンビニ袋の中で豆腐が傾く気配を感じながら、目の前の状況を整理しようとした。
「もしかして、君は普通の猫じゃないのか」
「普通の猫だよ」
黒猫は即答した。
「ただ少し、メタいだけだ」
路地の奥で、誰かの家の窓が閉まる音がした。私はため息をついた。こういう展開になる予感はなかったが、なってしまった以上、受け入れるしかない。
「それで、何を待っていたんだ」
「投稿だ」
猫は言った。
「今夜は投稿テストの日なんだろう。だから私は現れた。テスト投稿にふさわしい猫として」
「ふさわしい猫って何だよ」
「雰囲気がある」
確かに、黒猫は雰囲気があった。夜の路地、雨上がり、金色の目。いかにも小説の導入に使われそうな要素を、過不足なく備えている。本人、いや本猫にその自覚があるのが少し腹立たしかった。
「君はこれから家に帰り、適当な小説を書くつもりだった」
「まあ、そうだけど」
「適当でいい。だが猫は出したほうがいい。読者は猫が好きだし、書いている側もなんとなくそれっぽい気持ちになれる」
「ずいぶん身も蓋もないな」
「これは投稿テストだからな」
猫は胸を張った。自分がテスト用素材であることに、誇りすら持っているようだった。
私たちはそのまま路地を並んで歩いた。猫は人間の速度に合わせる気がなく、数歩先へ行っては止まり、振り返り、また歩いた。まるで物語の進行を管理している編集者みたいだった。
「名前は?」と私は訊いた。
「まだ決まっていない」
「決まってないのか」
「投稿テスト用の小説では、重要そうで重要でない設定は後回しにされがちだ」
「自分で言うなよ」
「なら、仮に夜一号とでも呼ぶか」
「雑だな」
「適当な小説を書けと言ったのは君だ」
ぐうの音も出なかった。黒猫――夜一号は満足そうにひげを揺らした。
家の前に着くころには、雲の切れ間から月が出ていた。古いアパートの外階段は少し錆びていて、踏むたびに小さく鳴った。私が二階の部屋の鍵を開けると、夜一号はためらいなく中へ入っていった。
「勝手に入るな」
「猫の登場シーンとしては自然だ」
「自然かなあ」
部屋は散らかっていた。机の上には読みかけの本、飲みかけの水、充電が半端な端末。夜一号はそのあいだを器用にすり抜け、窓辺に飛び乗った。丸くなるのかと思いきや、外を眺めながら言った。
「さあ書け」
「急だな」
「小説には勢いが大事だ。特に投稿テストでは」
私はパソコンを開いた。白い画面が立ち上がる。タイトル欄が空白で、本文欄も空白だった。夜一号はちらりとこちらを見て、しっぽをゆっくり振った。
「最初の一文はもう決まっているだろう」
私はキーボードに指を置いた。
『これは猫に関する小説であり、同時に投稿テストでもある。』
打ち込んでみると、思ったより悪くなかった。少なくとも、何もないよりはずっといい。夜一号は満足げに目を細めた。
「ほらな」
「君、本当に何なんだ」
「猫だよ」
「それ以外は?」
夜一号は少し考えるふりをしたあと、窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。
「たぶん、書き出しに困った人間の前にだけ現れる猫だ」
それは妙にしっくりくる答えだった。世界には、そういうものがいてもいいのかもしれない。信号待ちの時間だけ正直になる人とか、冷蔵庫の前でだけ人生を考える人がいるように、文章の一行目の前にだけ現れる猫がいたって、不思議ではない。
私は書いた。雨上がりの路地のこと。塀の上の黒猫のこと。少し欠けた耳と、金色の目。メタいことを平然と言ってのけるくせに、濡れた足先を几帳面になめて整える、どうしようもなく猫らしい仕草のこと。
書いているあいだ、夜一号はときどき机に飛び乗り、ときどきキーボードの前を横切り、ときどき何の前触れもなく画面の端を見つめていた。そこに何が見えているのかはわからなかったが、猫という生き物はたぶん、人間の視界の少し外にあるものを知っている。
一時間ほどして、私は手を止めた。短い話だった。大事件も起きていないし、世界の秘密も明かされていない。けれど、悪くない気がした。投稿テスト用の小説としては、むしろちょうどいい。肩の力が抜けていて、猫がいて、少しだけ夜がきれいだった。
「できたよ」と私は言った。
だが、窓辺にはもう夜一号はいなかった。
開けた覚えのない窓がほんの少しだけ開いていて、カーテンが夜風に揺れていた。外を見ると、アパートの駐車場の隅を、黒い影がゆっくり横切っていくのが見えた。街灯の光を浴びた金色の目が、一瞬だけこちらを向く。
「またな」
そんな声がした気がした。
私は小さく笑って、投稿ボタンの上にカーソルを合わせた。これがテスト投稿であってもいい。むしろテストだからこそ、こんな猫の話がちょうどいいのだろう。完璧じゃなくていい。ちゃんと表示されて、ちゃんと読めて、少しだけ誰かの夜に残れば、それでいい。
クリックする。
画面が切り替わる。
投稿は完了しました、という無機質な表示の向こうで、どこかの路地を、あの黒猫が今も歩いている気がした。次の書き出しに困っている誰かを探して。あるいは、次の投稿テストにふさわしい夜を探して。
もし今、あなたの窓の外で、何かがひっかくような小さな音がしたなら、それは風かもしれないし、枝かもしれない。けれど万が一、金色の目をした黒猫がいたなら、どうか驚かないでほしい。
その猫はたぶん、こう言う。
「遅い」
そしてあなたに、最初の一文をくれるのだ。
あとがきめいた一言
この小説は猫の小説であり、同時に投稿テストだというメタい事情を隠さないまま進んでいった。だが猫はたいてい、そういう人間側の事情を気にしない。だからたぶん、これでいい。